制作について:
わたしは主に写真やヴィデオを用いて作品制作をおこなっています。役目を終えて取り壊される美術館や、海岸線に小さく開口する洞窟状の陣地群、田畑やその隅に建てられた用具入れなど、被写体とするものはさまざまです。そのようなわたしの実践をつらぬくひとつの大きな軸として、「記録」という言葉で言い表すことのできるものがあります。
わたしがプロジェクトを通じて撮影してきた被写体の中には、いまではもう同じ場所に同じような姿で目にすることができなくなったものもあります。また、その姿がまだ失われていなくとも、例えば人為的な要因や自然の諸力によって、遠くないうちにそのかたちを変えてしまうように思われるものも含まれています。自らの制作活動はいままで、そうした事物との出会いによってこそ駆動されてきたように思えます。言い換えるならば、プロジェクトの始点には能動性ではなく受動性が確実に先行しているのです。その意味で、わたしの作品の基底を成しているのは、アーティストやプロフェッショナルといった言葉へと分化する以前の、いま目の前に在る事物の姿かたちを覚えておきたいという、一種の素朴な欲求であり、それゆえに写真やヴィデオといった媒体を使用しているということも可能です。
そのことと同時に、わたしが撮影してきた対象の多くは、もし公的な歴史記述と対応するような記録活動というものを想定するときには、その欄外に残し置かれてしまうような存在なのだと思います。たとえば解体をひかえる美術館の中に設置されていた窓や椅子、軍事的な遺構の壁面部分に残されている掘削時の痕跡。そうした、いわゆる細部と称されるような、マージナルなものの存在は、記録という行為が決して公平で無差別ではないこと、それが特定の目的や意図によって遂行されていることを、言葉とは別のかたちで示しています。つまりそれらは、写真やヴィデオという複製的であるゆえに記録行為と強く結びつくメディウムの価値や可能性を提示するとともに、それを使用する行為と不可分な恣意性や限界をも静かに問うているといえるでしょう。つまり「記録」とは、わたしの作品にとってポリフォニックな主題でもあるのです。
そして、わたしの作品はそれぞれモチーフが異なっていても、その動機や主題においてゆるやかに接続しています。そのことは異なる時間、異なる場所で撮影されたイメージであっても互いに呼応する可能性をもつということです。つまりわたしの作品群は、私的な、あえて“弱い”とも形容すべき、一種のアーカイブを形成しているのだと思います。そしてそのような「弱いアーカイブ」はひそやかに消えつつあるものたちの姿をとどめ、そのことによって記録という行為をとらえなおすものとなり得るはずです。
篠田優